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井上さんは永遠だ

角田です。初めて書きます。よろしくお願いします。
6/18の自治総が終わって、3回生の方々が一斉に引退していきました。
そして、私は"違和感"に悩まされる日々が続いております。
思うのですが、寺田さんや福村さんが仕事をバリバリしていない自治会室なんて、正直自治会室ではないと思います。枝松さんのあのメガネの感じや、 月曜日の午前11時半頃に、リソ機前のイスにちょこんと座って、弁当を食べている義之さんのあの感じを味わえない自治会室を、はたして自治会室と呼べるのでしょうか。
そして、今、そんな"違和感"で私を殺さんばかりの存在が、井上さんです。
先週の金曜日の七夕祭が終わり、今や井上さんは完全に引退してしまいました。
死にたいです。大好きだったバンドが突然解散してしまったような、そんな虚無感に襲われています。 こんなことなら七夕祭なんて終わってほしくなかった。 井上さんと自治会室を引き離したのが、悔しくも「再会」の象徴である七夕祭だったのです。こんな皮肉があるのでしょうか。
この文を書き始めたとき、井上さんが「七夕祭ですがパソコン借ります」と言って、この奥の部屋に入っていきました。 嬉しさと同時に、語尾の「〜ます」と言う丁寧語から不気味なほどの他人行儀さを感じ取り、 また、「七夕祭ですが」の部分から、もはや自分は自治会の人間ではないという確かな意思を思い知らされ、私は憂鬱になりました。 そして、去り際に井上さんが言い放った「七夕祭終わって、いよいよココに居づらくなってきたんやけど……」という言葉。 それは、私を更なる憂鬱へと誘い込むには充分すぎるほどの言葉でした。
こんなふうにして、井上さんを見る機会はこれから1週間に1度、1ヶ月に1度、3ヶ月に1度、そして1年に1度……と減っていくことでしょう。 井上さんは井上さんの人生を歩み、私達は私達の人生を歩んでいきます。 「別れ」というのはつまり、その人の人生に参加しなくなるということです。そこには何の接点もありません。
しかし、記憶は違います。人間の脳と言うのは実は非常に賢いもので、忘れたと思っていても、本当は記憶として残っているものなのです。 ですから、私が老人になり、たとえ病床に臥す生活を送っていたとしても、井上さんと自治会室で過ごしたあの日々のことを忘れはしないでしょう。 井上さんが弁当を開けたときに広がるあのいちごの甘い匂い、真剣な表情でパソコンに向かう井上さんの揺れるまつ毛、 ビラ配りで3連続で無視られ、小さく見えた井上さんの背中……その1コマ1コマが、 脳の記憶を保存するあらゆるポケットにおさめられ、本人は覚えていなくても脳はちゃんと覚えていることでしょう。
そうです、記憶は永遠なのです。私が息絶えて脳が死んでしまうその時まで、永遠なのです。
脳の死と言う終りがあるというのに、永遠という言葉を使うのはおかしいでしょうか。「有限の永遠」なんて概念を滑稽だと思うでしょうか。
私は、俗に言う「永遠」なんてものはないと思っています。「この愛は永遠だ」なんてホザいていても、1ヵ月後には分かれているようなカップルなんてザラにいるでしょう。 そもそも、始まりがあるものには必ず終わりがあるのです。ビックバンで生まれたと言われるこの宇宙でさえも、終わりがあるのですから……。
しかし、一方で「永遠」を信じたいという思いもあります。そんな無邪気な心で生きたいと思ったりします。 ですから、せめて「有限の永遠」だけでも信じていたいのです。
私は主張します。記憶は永遠です。そして、自信を持っています。永遠である記憶の中に存在する井上さんもまた、永遠です。 井上さんは、永遠です。Forever,井上。
角田


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