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井上さんは人間ではない

角田です。書くのは3回目です。
先日、この「自治会とわたし」に"井上さんは永遠だ"とする説を書いたところ、様々な方面からたくさんのお叱りといいますか、哀れみの声が聞かれました。が、その大部分は私の予想していたことでした。人の噂話が好きというか、人の弱みが好きな土山さんや、何かあったら人の心を見透かしたような笑顔で近づいてくるデイビッドさん、また、厚顔無恥な永松(19歳・枚方在住・主な生息地:大原。以下、大原)が、この「自治わた」をネタに騒ぎ立てることは予見した上で書いていたのです。
しかし、張本人の井上さんに見られることは予想外でした。前回も書いたとおり、七夕祭も無事に終わり、井上さんは自治会を完全に引退した身。たまにちょっとした用事で自治会室に来ることはあったとしても、まさかそこで「自治わた」をじっくり読むなんてことはないだろうと思っていたのです。実際、枝松さんも義之さんも福村さんも寺田さんも、自治総が終わったあとはほとんどその姿を見せていませんし、自治会室に来てもそそくさとすぐに退出していくことが多かったのです。私自身、先見の明はそれなりにあると自負していたのですが、今回の件でその自信はあっさりと打ち破られてしまいました。
井上さんにあの文章を見られたと察したときのことを、私ははっきりと覚えています。
あれはいつかの水曜日、3コマ目の「英語AT」の授業が終わったあとのことでした。この日はクラス紹介冊子を配ったのですが、余分に刷った分が手元に残ってしまったので、それを置いておこうと自治会室に寄ったのです。都合のいいことに「英語AT」の授業はいつも10分以上早く終わるので、次の「ミクロ経済」の授業が始まるまで時間は充分にありました。
いつものように生協横の螺旋階段を駆け上り、ソファを横切ったすぐ先の扉から私は自治会室に踏み込みました。そこでまず最初に目に飛び込んできたのが、井上さんだったのです。彼女は髪をサイドに束ねて、いつもとは少し違う印象を受ける服装をし、椅子にちょこんと座っていました。
私は少しうろたえました。自治会を引退し、今やただのしがない大阪府立大学人間社会学部言語文化学科の3回生であるはずの井上さんが、なぜ堂々と自治会室に居座っているのか、私は混乱しました。そして、そんな井上さんの目の前には、「自治わた」が無造作に置かれていたのです。
――み、見たのかな?
私は不安になりました。ふと横を見ると、田村さんがリソ機の前でいつものように絡みづらい笑顔を発していました。
私は段ボールの箱に入ったクラス紹介冊子を机に置き、井上さんの表情を伺いました。こういうときは相手の出方を見るのが一番よいと相場で決まっているのです。
移動しながら5秒間くらい井上さんの顔を見つめていたと思います。見られていることに気付いたらしく、彼女の瞳には私の顔が映り込みました。その瞬間、井上さんは吹き出したのです。
あんな表情をした井上さんを見たのは初めてでした。笑いを噛み殺そうとするも、堪え切れずに吹き出してしまい、顔全体が中心の一ヵ所にぎゅっと集まるあの感じ。井上さんが今までで一番、梅干しに見た瞬間でした。そして私は察したのです。「あ、見たのね」と。
こんなふうに井上さんのことについて書くと、またデイビッドさんが「井上のこと好きなんやろ?」と冷やかしてきたり、大原が「もうコクれや!」などと戯言を言ってくることは目に見えています。この際はっきり言っておきますが、私が井上さんに抱いている感情はそのようなものではないのです。
たとえば、あなたが美術館に行ったとします。もちろんその美術館にはたくさんの素晴らしい絵画が飾られていますが、その中のある1枚の絵を見て、「これは特に美しい」と思う"名画"があるでしょう。
また、あなたは好きな歌手の曲を聴いていたとします。その歌手の様々な楽曲に触れていく中で、シングル曲でもアルバム曲でもカップリング曲でもいいのですが、歌詞、メロディー、歌い回しのどれを取っても、「これは特に素晴らしい」と思う"名曲"がきっとあるでしょう。その"名画"や"名曲"が、私にとっての井上さんなのです。
いくらその"名画"や"名曲"のことが好きだと言っても、それはデイビッドさんの言う「好き」という感情とは全くかけ離れていることは明らかです。どれほど名画を愛でていても、その作品を美術館から盗んで自分の家に飾ったりはしないでしょうし、また、どれほどお気に入りの歌手の歌う名曲が好きでも、その歌手を拉致して自分の家で演奏させようなんて考えることはないでしょう。
ここまで高次元な段階に達してしまえば、そのモノ自体をある意味愛していたとしても、自分のものにしたいと思うことは決してないのです。ですから、大原の言う「井上さんに告白する」というのは、全く意味がわからないというのが正直なところなのです。
しかし、こうして井上さんのことを考えていると、井上さんが一体何者なのか不思議に思えてきます。というのも、私は井上さんを見て見ぬふりしながらたくさん観察してきましたが、その正体が未だにいまいち掴み切れていないのです。私がこれまで見てきた井上さんと言えば、歩く井上さん、走る井上さん、話す井上さん、黙ったままの井上さん、笑う井上さん、無表情の井上さん、パソコンに向かう井上さん、弁当を食べる井上さん、お茶を飲む井上さん、自転車で立ちこぎする井上さん……と、このほかに何パターンか加えても、せいぜい10数パターンから20パターンくらいの井上さんしか見たことがないのです。
これが土山さんなら40、デイビッドさんなら50を優に超える数のパターンを挙げることができるでしょう。しかし、いざ井上さんとなるとなかなか思い浮かばず、私の記憶の中の彼女は、いつも同じ動きをしているのです。
これが一体何を意味しているのか。難しい問題です。人間であるはずの井上さんが、私にとって、まるで機械のように無機質な存在として捉えられる一面があるのです。
一つの可能性として、これは私の完全なる気のせいだということが考えられます。つまり、井上さんはもっと人間味溢れる行動をしているのだけれども、私の認識がそれに追いついていないのです。この場合、単に私の頭がおかしいということになります。
ですが、果たしてそんなことが有り得るのでしょうか。私の中で絶えず輝きを放っている名画のような井上さんに対して、私自身が認識を誤ってしまう可能性があるでしょうか。考えにくい、というのが正直な答えです。私の頭は正常に機能していて、おかしいのは井上さんのほうなのです。
さて、もしそうでなければ、二つ目の可能性が浮上してきます。そうです、井上さんは人間ではないという可能性です。
すると今度は、じゃあ人間でなければ一体何なのか、という問題に直面してしまいます。精巧に造られたロボットなのか、もしくは宇宙人や火星人のようなエイリアンの類なのか、とSFじみた様々な疑問が絶え間なく浮上してきます。しかし、そんな小説や映画の中でしか存在が確認できないような概念で井上さんを語ることは、おそらくは無理でしょう。
ここで私は次のような考えを提唱します。井上さんは"唯一物"である、と。
"唯一物"とは、――唯だそこに一つ存在している物――という意味です。この"唯一物"という言葉は、私が作った造語なので、Google等で検索してもヒットはしません。井上さんは、「唯だそこに存在している、一つの物」として理解されることが可能です。この「唯だ」という言葉には、脆さが垣間見えます。つまり、観測者がその「物」を観測しているときには、はっきりとそこに存在していることが確かめられるのですが、観測外の地点に「物」が移動してしまえば、存在していない可能性が充分に高まるということです。
この提唱を聞いて、読者の皆さんはおそらく全く意味がわからないという顔をしていることでしょう。貴様の空虚な妄想に付き合っている暇はない、そう言いたげな表情が見ないでもはっきりと見て取れます。なので、もう少し平易な説明を行いたいと思います。
私が言う"唯一物"という概念に最も近いのが、"神"という概念です。しかし、近いといっても遠くかけ離れている部分が一つあります。それは、"神"は存在していることが確かめられないということです。さっき私は、"唯一物"は『観測者がその「物」を観測しているときには、はっきりとそこに存在していることが確かめられる』と述べましたが、"神"というのは一般的に観測が不可能な存在であり、ゆえにその存在が確かめられることはありません。"唯一物"="神"という等式は絶対的に不正解なのです。
何度も言うようですが、"神"というのはまずもって観測が不可能です。たとえば、公園で地上を這っている蟻を人間がちょっとつまみあげて地面に落としても、蟻は最初こそは慌てた様子で6本の足をちょこまかと動かしていますが、じきに何事もなかったような素振りで自分の巣に戻っていきます。自分の体とは比較できないくらい巨大な物体がそこにいるというのに、蟻は脅威を感じていないようにも見えます。そうです、蟻は人間を認識することができていないのです。自分の体より何万倍も大きな物体を把握することはできないのです。つまり、蟻にとって人間は"神"のような存在だということです。
しかし、私たちは井上さんを認識できます。井上さんに触れられたら、私たちは何らかのリアクションを起こすことができますし、井上さんに話しかけられれば、何らかの返答をするでしょう。私たちにとって、井上さんは"神"のような存在ではないことは容易に解ると思います。
ですから、"神"ではなく、"神がかり的な"という表現を使って、もう少し意味を弱めてみることにします。神が人に乗り移ったような、そんなニュアンスで考えてもらえれば一番理解しやすいと思います。「井上さんは"唯一物"である」という提唱は、イコール「井上さんは"神がかり的な"存在である」ことと同義であると解釈してもらって構いません。
井上さんが"神がかり的な"存在の"唯一物"ならどうなるのか。何か問題があるのか。次にそのような疑問が浮かび上がってきます。私は即答します。いいえ、どうにもなりませんし、何の問題もありません。井上さんが"神がかり的な"存在であってもなくても、誰も得も損もしないでしょう。しかし、その一方で、井上さんに対しての見方が確実に変わってくるという事実もあります。
井上さんは兵庫県の三田市に住んでいると聞きます。しかし、彼女が"唯一物"であるとすると、それは果たして本当のことなのでしょうか。そもそも、彼女は大阪市営地下鉄御堂筋線を使って毎日通学しているのでしょうか。
"唯一物"に家など必要ありません。観測者の目から離れてしまえば存在自体が危うくなるのですから、家に帰る必要もないはずです。また、"神がかり的な"井上さんはわざわざ御堂筋を使わずとも府大に現れることは可能なはずです。そもそも、ふと見ればそこにいる、唯だそれだけの存在なのですから、井上さんに私生活など必要ありません。
これに対して、自分は井上さんを通学途中に見たことがある、お前の言っていることはデタラメだ、と反論する人が出てくるでしょう。実際に、私も1度井上さんを電車で見かけたことがあります。その時は確かに約32分間、同じ電車に乗っていました。しかし、だからと言って井上さんが毎日電車で通学していると言い切れるでしょうか。1度や2度見かけただけで、それが毎日行われているとは限りません。私は井上さんの一部分を観測しただけで、すべてをこの目で捉えたわけではありません。一部は全部ではないのです。
これが井上さんの仕掛けた罠なのです。つまり、彼女は府大内、特に自治会周辺以外の場所でたまに姿を現し、人にその存在をわざと印象付けさせているのです。そうすることによって、井上さんはさも毎日同じような通学というルーチン・ワークを行っているのだと人は錯覚を起こしてしまいます。これが巧妙に仕掛けられた罠だということを、皆はまだ気付いていないだけなのです。
井上さんの家がもし存在していても、玄関のドアを開ければ、そこには「無」が広がっていることでしょう。そう、彼女にとっては、空間も時間も思いのまま、自由自在なのです。もしかしたら、府大の外で井上さんを見たと思った瞬間に姿を消し、その数秒後、彼女は50m先にワープしている、そんな場面を見かけることがあるかもしれません。
さて、このように長々と井上さんのことを考えていると、更に謎が深まってしまっていることに、私ははっと気付きます。"唯一物"や"神がかり的な"という言葉を使っても、まだ井上という事象をちっとも解き明かせていないような、そんな気持ちになってしまいます。本当は一歩も前に進んではいないのだろうかという疑念に襲われてしまいます。
おそらくこれは哲学なのでしょう。井上さんは哲学的な存在なのでしょう。ハイデガー、ソクラテス、プラトン――歴史の上には数多の哲学者が様々な事象を考え、解き明かそうとしてきましたが、井上さんほど複雑で奇怪な事象がかつて存在したでしょうか。井上さんほど抽象的な事象が今までこの世にあったでしょうか。
しかし、これだけは言えます。井上さんは人間ではありません。人間である道理がありません。ここまできて、人間であってたまるか。怒りにも似た感情でそう思います。そうです、井上さんは、人間ではないのです。井上 is not a human.

――ここまで書けて、私は今、満足しています。お腹いっぱいといった感じです。最初からここまで必死に耐えて読み切った読者の方は、腹でも下しそうな思いに襲われているでしょうが。
でも、もうちょっと、あとちょっと書いておきたいと思います。食後のデザートは別腹です。
それは、7/4(土)のことです。自治総の反省会が終わり、その後の打ち上げも終わり、私たちは中百舌鳥駅から電車に乗っていました。そこには私の他に、井上さん、枝松さん、デイビッドさん、そして西田がいたと思います。
私の正面にはデイビッドさんと西田が座り、私の隣には枝松さんと井上さんが座っていました。左に枝松さん、右に井上さんです。まさに両手に花といった感じでした。
しかし、私にとっては右の井上さんの存在が大きすぎて、それは左の枝松さんの気配を掻き消していました。枝松さんは確かに私の左側で生命活動を行っていたはずですが、私には置物か何かに感じられるほどでした。しかし、だからと言って右の井上さんを直視することもできませんでした。なんと言っても、"神がかり的な"存在なのですから。右側にパワーをビシビシと感じつつ、私は正面を向いて座っていることしかできませんでした。その正面を見ると、デイビッドさんが人の心を見透かしたような笑顔でニヤニヤしていました。
その状態で20数分が経ち、電車はなんばに到着しました。枝松さんはここで乗り換えです。デイビッドさんは枝松さんが降りていくのを目の端で見送りながら、欠伸をひとつして、眠そうな表情を浮かべました。
それから5分ほど経って、淀屋橋に着きました。ここはデイビッドさんと西田が降りる駅です。
デイビッドさんはグーの状態から親指を1本突き出した、よくあるあの形をした手を私のほうに突き出し、意味深長な笑顔でニヤニヤしながら降りていきました。
とうとう私と井上さんが二人きりになりました。淀屋橋から梅田まで一駅。時間にして3分です。
あの時のことを、私は鮮明に覚えています。正面には、デイビッドさんと西田がいなくなったあとに座った、サラリーマンらしき2人が何やら楽しそうに談笑をしていて、その左には緑と白のボーダーの男性、そしてその更に横には紫の服を着た男性が座っていました。ついでに言うと、そのまた横には薄いピンクの色をしたシャツのサラリーマンが座っていたと思います。
その3分間は、短く感じられたのか、長く感じられたのか、微妙なところです。井上さんの圧倒的な存在感を浴び、私の鼓動は大きく波打っていました。電車の横揺れと共に、私も彼女も小さく揺れ、それがある種の一体感をそこに生み出していました。
やがて梅田に電車は到着しました。私は井上さんの少し丸まった背中を眺めながら降り、ホームで2人は向かい合いました。
ここから先は別々です。私は梅田から阪急で帰りますが、井上さんはJRで帰るということは、2人とも知っていました。ここでお別れです。
「じゃあ」と彼女は言いました。
「それでは」と私は言いました。
2人は互いに背中を向け、歩み始めました。私は振り返ることはありませんでした。無論、彼女もそうだったと思います。私はすぐそこの階段を駆け上り、井上さんは人ごみの中へと紛れていきました。
その後、阪急電車の中で私はふと虚しさに襲われました。自治総の反省会すら終わってしまった今、この先、井上さんと一緒に電車で帰るなんてことはないでしょう。数10cm、場合によっては数cm横に井上さんがいる状態を30分以上も経験するのは、最初で最後だったのかもしれません。
私はカバンの中からiPodを取り出しました。お気に入りの曲ばかりを入れているプレイリストに目を通しましたが、そのときは大好きなはずのポルノグラフィティもMr.Childrenも椎名林檎も、今の自分には何に物足りない気がしました。
私はふと「アーティスト」から「宇多田ヒカル」を選択しました。そして、アルバム「First Love」を選びました。これは、1999年に発売された宇多田ヒカルの1stアルバムで、日本で760万枚以上を売り上げた驚異的な作品です。CDアルバムセールス歴代1位を誇る名盤の中、私は表題曲である「First Love」を選択しました。これはまさに名曲です。彼女がこれまで発表したすべての楽曲の中で一番だと言っても、さして異論はないほどの名曲です。
宇多田ヒカルの歌声が、耳元から脳に流れ込みました。彼女独特の低音から入るAメロBメロの後、サビのメロディが私の胸に染み入りました。
"You are always gonna be my love いつか誰かとまた恋に落ちても
I'll remember to love You taught me how
You are always gonna be the one
今はまだ悲しい love song 新しい歌 歌えるまで"
角田


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